昭和52年03月04日 朝の御理解
御理解 第41節
「信心は話を聞くだけがのうでない、和賀心からも練りだすがよい。」
昨日こがん茶屋の関さん達が親子でお礼に出てみえてから、関さんのあぁした非常に熱情家ですから、もうそれこそ強引なところがありなさいます。けれどもそこに難儀な人を見たりされると、もうそれがジッとしておれない。もうその事をもう本気になって願われる。関さんの周囲に、そうしたおかげを頂く人達が次々と出てきます。もう一ヶ月も前からでしょうか、あの皮膚病、胴巻きというのがありますがね。
体を巻いてしまう何か皮膚病、あれが巻いてしまったら命に関わると言われるそうですが、あれが外側が痛むだけじゃなくて、中が痛んできたらもう駄目だそうで、命がないって言うことです。もうその、胴巻きで中が痛んで、もう医者も手の施しようのないと言うような人の事を、あれは大城さんという、毎日お届けがあるんですけれども、だんだん御神米をずっと持っていかれて、毎日一つぶずつ頂いていかれるうちに、そのう痛みが止まって、もう大変こうおかげを頂いていっておる。
でその奥さんのご主人が悪いのですから、奥さんもちょいちょい御参りがある、昨日一昨日はもう本当にそのうぜんぜん痛まなくなったという。一緒にお礼参拝をして来ました。その時に関さん達も親子で参って、帰りの車の中でです、「本当に広大なおかげを頂いてありがたい」とそのおかげ話をされて、そのうまぁ本人はお参りじゃないから、おかげの泉をもう繰り返し繰り返しに読まれるそうです。また、きつい時には奥さんが読んでやられるわけです。
そしてその、ここでお届けされませんでしたけれども、今まで掛かっておった医者もやめ、いろんな飲んでおった薬も、つけておった薬も全部すててしまわれたそうです。それから、私の方におかげを頂いたというそのお話を車の中でされたそうです。それを横で運転しおるその敏子さん自身が聞かれてですね、もうそれこそ、あの翻然として悟ったわけですね。子供たち二人が風邪をひいて、もう40度ちかく熱をだして、そのまぁ医者だ薬だと言っておる。
はぁもう本当に長年信心し、お話を頂いておってから、本当に子供の事になるともうこげんも迷うもんだろうかと思うて、その日からもう朝参ってきて、薬はよう飲まん、医者につれて行かんことに決めたんですと。その日から熱は下がったというて、子供も連れてお礼に出てきました。この練りだすという事はその、何か古風な練りだしてです、もう楽な方へ楽な方へ練り出す人がいますよね。
自分の都合がいい方に練りだす人がある。私は練りだすという事は道が開ける、おかげが頂ける、練りだし方じゃなからにゃいかんと言うのですよ。神様からだんだん、忘れておらん、心にはちゃんと頂いておる、そしてそのう、心にも引っかからんでおるといった様な練りだし方をする人があるですね。必ずおかげがだんだん減っていくです。 ですから、おかげの頂けれる、またはお徳が受けられると、思われる練りだし方でなからなければいけない。
これも昨日、先日から四国の、井上さんのお姉さんがおられます。毎月四国から月参りを、思い立っておられるところが、先月は出来なかったから、ご主人がこちらに参って、みえたそれから娘さんと落ち合って参っておる、川上さんと言うんです。それがその、娘さんがあの、生理痛で、もうそれはもう、親が側で見ておられないぐらいに苦しまれるそうですね。それでもう勿論医者に行き、薬もうそれももう、昨日久留米の井上さんがお届けされましたが。
あの人の生理痛のひどいのはまぁとにかくたまがるほどだそうですけれども。もう医者もこれ以上の薬は飲まされん、これ以上の注射はされんと言われるそうです、ひどい薬ひどい注射をしなければならないわけです。それでやっぱその、痛みは止まるけどその後の不愉快さというか、何かそのどうにも言いようのない苦しみが伴うそうです。それで今度お父さんと一緒にお参りした見えてもその事がまぁ願いで御座いました。ところが帰られたとたんに、その生理が始まり、生理痛がおこった。
そこで早速ここへ電話を掛けられたけど出なかったから、久留米の井上さんとこに掛けられて、井上さん所からお願いがあって。それから間もなくまた電話が掛って来た、もうそれこそ嘘のように痛みが止まった、しかも有難い事にはその、薬で注射でと言う時には、もう後の不愉快さというか、あのうまぁ言葉では表せないような、そのうまぁ症状が伴うんですけれども、それがスッキリおかげを頂いたから、早く合楽にお礼に出てくれと言うて、あの電話があったから、後で昨日お礼に出て見えられたね。
だから私はここへ見えたときに、もうそんなにひどくて、注射やら薬やらじゃなくて、もう薬と注射は止めなさいませと私が言った。それでもう大変な苦しみが起こったんですけれども、合楽の先生がそう言ったから、もう本当に薬は飲むまい、薬は頂くまいと、注射してもらうまいと腹を決めた、けれども、そういう痛みがあったけれど、やはりおかげを受けておる。これは話を聞きますともう七転八倒するほどに苦しまれるそうです、もう親が側で見ておられんぐらいに苦しまれるそうです。
それを例えばもう薬はいかん、注射は止めろといわれて、もう本当に神様一心にお縋りして、それから、その様子を電話でまぁお届けされたわけ。おかげを頂く方へ自分の心が決まる、これは練りだすという事、考えて考え抜いたっていう訳じゃないでしょうけれども、私はそういう体験を頂いて初めて次の練りだす信心も生まれてくると思うわけですね。あの時にあの手でおかげを頂いたが、んならいつもそれこそドジョウが柳の下にばかりいないようにね、一辺そこに魚がおったからっていつもそこに魚はない。
もう信心は絶えず神様が誘導しながら信心を進めさせてくださる働きがあるのです。あの時にあの手でおかげを頂いたから、今度もこれでおかげを頂くという事はない。けれども、そういうたとえば、神様のまぁ言うなら仰せに従った生き方の中から生まれて来る体験。そして、ならあの時に、と長年信心させて頂いとって、さぁ子供が風邪ひいた熱があると言いやあ、さぁ薬だ。あの関さんとこでも、その注射や薬やらを子供のことですから飲まない、それを泣かせて飲ませるわけです。
それでもうその前の日には、看護婦さんがあの、今お尻からこう指す薬があるそうですね、口から飲まんと、子供なんかのだから、明日からそげな風にしましょうと言うって、話をまぁ決めてあったそうです。そこへたまたま、そのお母さんを導いた大城さんという方の話を聞いて、もうこの胴巻が中にこもったらもう死ぬより外に手当てはなかというごたるひどいとが、痛みが止まったと。
それをなら自動車の中で聞かせて、ここではそれをお届けされませんでしたけれども、帰る道々その話されたという、あのおかげの泉を読んでですね、これはもう神様一心にすがらにゃ助からんと思うてから、その医者をやめたり、薬を捨てたりさせて頂いてから、おかげを頂いたという話を聞いて、横で運転しておる敏子さんがまっ悟ったわけですね。そして、そこに鮮やかなおかげを受けたわけです。
だから、そういうおかげを頂かないとです、次にならお見合いするときに心で練りだすという事になってまいりません。ただその,頭で練りだして自分が楽になるように、信心の楽な方へ楽な方へ練りだしていく人がいますよ。 参らんでんやっぱおかげ頂きますよといった様なことになって来るとです、それは必ず本当のおかげには繋がらない、本当の力にも徳にも繋がらないことになります。
練りだすと言うても、私はおかげの頂けれる練りだし方、為にはね、まずはそういう教えに忠実というか、または勇気と申しましょうか。例えばお商売をさせて頂いてもやっぱそうです、神の用をたせば氏子の用は神がたしてやるとおっしゃるから、本当に親先生がおっしゃるからと思うて、なら自分の商売は一日なら一日投げ打って、御用のほうへ使うて頂いたらなるほど神様がね。
いや自分が一人で働いておるよりもかえっておかげを頂くという体験は皆が頂いておられるのです。だからと言うて今度は同じことで、続かないのです不思議に。この前もお神様に御用にやらして頂いた、そしたら商売の方も売上がもっと多かった。ならこの次もというと、イヤ反対に困った事が起きたりするのです、そこに練り出さなければならない事があるのです。
そして一分ずつでも、その練りだした生き方が本当な事に、なって行く、道に叶うた生き方になって行くときにです、いよいよまた新たな、言うならば、おかげの分野というものが開けてくるのです。だから限りなく信心は、進展していかなければならない、進んでいかなければならない。練りだすということは、その進んでいく事のための練りだしでなからにゃいかん、おかげが確実に頂けれる、練りだし方でなからなければいけない、と言う事でございますよね。
昨日大阪の先生方がここへ、まぁ研修に見えておられました、昨日私は親教会の大祭ですから、丁度9時半までお話をして、それから立たせて頂きましたが、立たせて頂く時に、10時頃ここを立つと言うたから、又無事どうぞ帰れるように、折角合楽で研修された事が無駄にならないように神様にお願いをさせて頂きましたが。そのここでお願いをしております時に頂く事が、あのラムネですねあのラムネ、サイダーのラムネ。
ラムネの気が抜けたのに醤油をこうじょうごでさしておる所を頂いたんです。どういう事だと思うですか。しかもそのラムネが気が抜けとるとハッキリ私に感じられるんです、その気の抜けたラムネにしょうゆをジョウゴでさしてからこう入れ差しておる、調合しよるわけです。ラムネの気が抜けたというのはもうベスッとも言わんわけね、甘かばっかり。しょうゆを差すと言う事は、これはどういう事かというと。
醤油の事を紫と言いますね、お寿司屋なんかでお醤油くれなんかって言うのはヤボです、紫っとこういうと、はぁこの人はツウだなとこう、思われる、お寿司屋さんのこれは言葉ですよね、おしょうゆのことを紫といいます。紫ということは安心、しかも安心というのがしょうゆは黒うしておりますから、苦労から生まれた安心。例えば私の安心のおかげと言うのは、もう苦労に苦労、修行に修行を重ねてここにこれだけの安心を頂いておる、言うならば、今日の合楽の信心ということです。
ラムネ気が抜けたというのはね、もちろん若いですから、そりゃぁやはり考え方が甘いということでしょう、合楽に来さえすりゃぁ何かが得られると、ただもちろん見にくるだけ。私は思わせて頂きましたのにね、もう本当に合楽の信心が全教にわかってもらい受け入れられてもろうて、全教が打って一丸になっておかげを頂くようにならなければいけない。とてもとてもそれでも、本部あたりで言っておられることと私の言ったり思うたりしておるとはもう大変な違いがある。
これはとても、もうとにかく合楽がおかげを頂くより他にはない、そう私あの、この前の報徳祭にお参りした時に思いましたら、神様からあの、「中に入って広め」と言う事を頂くんです。そしたら、そういうやっぱ働きが起きてまいりましたですね。あっちこっちから、ここの中を、ここを、まぁ研修にくる、言うならば学院の生徒がここにも研修に来るという3名参っておりました。
昨日私は、とにかく合楽の信心を頂いてどういう結果が生まれるかと言った様な事は、これを読んであげたが一番よかろうと思うて、末永先生に学院生が三人でお礼の手紙をよこしてきたのがある。もう本当に15日間であったけども、合楽で頂く信心、それこそ生き生きとした神様をもう目の当たりに見て生き生きとした神様の働きを目の当たりに感じさせてもろうて、これは私でもお道の教師が勤まるぞと、合楽の先生が言われるいわゆる合楽理念をマスターしていきゃ、これは私でも助かっていく事が出来るぞ、同時に人も助かる事ができぞと、お道の教師としての一つの自信が沸いてきた。
御本部で、今度学院、あのう教外の修行をされた学院生徒と学院先生方との懇談会があった、そして合楽に修行に行って、あの、どんな風だったか、どういう教会であったか、先生はどんな風に感じたかと,問われた時に一人の学院生が言っておりますが、あの教祖様にお目にかかった感じだと言うてしもうたといっております。心にあるものがヒョロット出たわけです。
学院では、合楽は合楽教だと言われておる先生方の多い中で、こういう事を言うてしもうたと思うたけれども、もう後の祭りだったと、言った様な事が書いてある。教祖様を目の当たりに頂いて、目の当たりにその教えを頂いて帰って、もう生き生きとしたもう躍動せんばかりのその御用の様子が三人が三人ともそんなふうに書いております。だから本当に言うならば白紙で合楽に修行にきた、今までの信心をかなぐり捨てて合楽の信心を頂こうと一生懸命15日間精進した。
そして、なら合楽理念なんかの説明を、あの細々とかいて、このことを行事させて頂くということの事を書いておりますがです。なら皆さんがね毎日毎日みえられて、なら合楽理念をまとめて話してみてごらん、どんな風に理解しとるかというと出来ない人が多いかも知れません。問題は本気でやはり勉強しなければ駄目だと言う事ですね。
だからそういう、あの合楽、例えば理念をマスターするという事はこういう言うならば結果が生まれてくるのですよという事を、三人の学院生のお礼の手紙から、分かってもらおうと思ってしましたけれども、けっきょく合楽のよかとこだけを、ひとつ見てこうもらおうという考え方、だから考え方が甘いんだという。しかもそれこそゲスッと言う位な生き生きとしたものはなくて、気が抜けとる言うならばラムネの、気が抜けたように甘いばかりだと、考え方が甘いというのです。
もちろん費用の一切が、あの教務所持ちですから、御初穂なんかでも教務所から、ちゃんと御初穂が、お届けしてございました。だからもう合楽のものを十分見たり聞いたり、写真に写したり、言うならば八ミリでとられたり、写真機でも映写するとでもクロウトだそうです、芸能社に元努めておった方らしくてね、だから本格的にああした撮影なんかも出けたわけです。
だから考えてみると丸きり合楽のためにです、例えばあの、写真やら映写機やらがあっちこっちずっと周りますでしょうね今度、そしてなら合楽の信心を世に問われるそのチャンスがたくさん出けて来るわけです。でなら合楽の理念を聞いていったり合楽の様子を見ていったりしてもそれがそのまま、ならお役に立つことはない、本当におかげを頂きたいならば、やはり修行のつもりで来なけりゃいけない、しかも修行でもです、白紙になって来なければだめだと言うことです。
今までのいわばあるものの上にちょこっとばかり頂こうなんて言う様な事では、それは参考にならん事はなかろうけど、本当のおかげにも力にもならんということです。自分の言うなら浅はかな考え方なんかを一篇かなぐり捨てて、言うなら人間心をかなぐり捨てて、言うならば信心の道を本気で頂こうという姿勢を作らなければいけないという事です。ラムネに言うならば合楽のいわばしょうゆ、紫ね、それをこう差したところでどういうものが生まれる、大した事はない。
そのラムネの気の抜けたというとこがいいじゃないですか、残っとるのは甘いものばかり、言うなら考え方が甘いんだと、それに引き換えて、たとえばなら学院生三人の子に、あのそういう色々批判がある合楽教会をとにかく人がなんと言うても合楽と言うてやってきた3人の学院生がです、本当にそれをマスターしてしもうた訳ではないでしょうけれども、その合楽理念、これさえ頂いていきゃ自分達でも助かれるんだ。そして楽しゅう有り難う信心修行が出来るんだ。
そしてこれは絶対の道だとその思い込みが出けて言わば元気な信心修行が出きるようなおかげを頂いておる。だから練りだすということもです、自分の浅い考え方をもって練りだしたり、また自分が楽になるほうの考え方をもって練ったところで、それは大した練り方にはならない。より良い練りだしは出来ない。自分を白紙にして、そして練らなければならない。同時に今日は聞いて頂きましたがね。そこにやはり、御教えを頂いてそれを元気なこころで行じぬけてそこから生まれてくる体験、その体験を元にして次のおかげの頂けれる信心を練りださなければいけない。
今日は練りだすという事を、話を聞くばかりが、話を聞いて助かると教えておられますけれども、今度は話を聞くだけではいけない、それをやはり練らなければいけない。そこから、なら練りだすと言うてもです、楽な方への答えが出るような練りだし方ではなくて、本当におかげの頂けれる心が開けてくる、そういう練りだし方をさしてもらわなければならん。それには、まずは体験を積まなきゃならん、それにはまず白紙で取り組まなければならないということでございます。
どうぞ。